周防桃子は、暇を持て余していた。
珍しくレッスンも朝だけで、昼からの撮影はリスケジュールによりキャンセル。
更に、自分が出演する予定の公演で使用される台本の読み込みも、別の現場の台本も、すっかり読み込んでしまい、何なら一部のセリフを投げられたら、自分ひとりで一本やりきれるくらい熟読してしまった。
平たく言えば、もうやれることがない状態なのだ。
そんな彼女は、他のアイドルが居ない事を良いことに、珍しく控室のテーブルに突っ伏していた。
「暑い…クーラーの効きが悪いなぁ…美咲さんに言っておかなきゃ…」
普段の彼女といえば、年上のアイドル達にも容赦なく「大人じゃない」行動を叱る事がよくあるのだが、
この日ばかりは、珍しく暑さにやられていた。
「あー…そう言えば学校の宿題…やってないやー…やらなきゃなー…」
普段の桃子なら、こうやってうだうだ言っているアイドル達にも、「ちゃんとしなきゃダメだよ!」と、ビシバシ言っていくのだが。
「宿題…算数のドリルと…国語の作文と…理科の…」
自らに課せられた宿題を思い返していると、いつの間にか暑さとクーラーの冷気の両方がいいさじ加減となり、彼女を眠りに誘っていった。
桃子が寝付いて約5分後。控室の扉が開く。
「おはよう…ございます…」
入ってきたのは、望月杏奈。
今日は午後から公演のリハーサルがあるのだが、たまたま早く着いてしまったようだ。
いつものように空いているロッカーに荷物を置き、ゲーム機とスマホだけを取り出していると、テーブルの人影に気づいた。
「あれ…桃子ちゃん…?」
この控室は、大きく2つのエリアに分かれている。
片方が、ソファーやテレビがあり、アイドルたちの憩いの場になっているエリア。
もう片方が、大きなテーブルと椅子があり、台本読みや打ち合わせなどにも使われるエリア。
お察しの通り、今桃子が寝ているのは、後者のエリアである。
「桃子ちゃん…おはよう………寝てる…」
杏奈は、念の為に声を掛けたのだが、当然桃子はすっかり夢の中である。
暑いと言っていたが、とても心地よさそうに眠っている。
桃子の前には、近日稽古が始まるミュージカルの台本と、次回の劇場公演の進行台本が無造作に置かれていた。
ミュージカルの台本には名前が丁寧に書かれているが、劇場公演の台本には、小さな可愛らしいシールが一枚貼られていた。
「ふふっ。桃子ちゃん…やっぱり、かわいい…な…」
すぅすぅと寝息を立てる桃子と、その台本の表紙を見て、杏奈は静かに笑い、
自分がよく使うブランケットを肩にそっと掛けた。
もしかしたら、暑いかもしれないけれど、などと思ったが、クーラーに近いこの位置だと、風邪を引く可能性もある。
そして、自分はというと、テレビの前に置いてあるソファに体育座りで座り、持参したゲームを起動した。
いつもなら、時間のあるアイドル達が集まって、一緒にゲームをするのだが、今日はどうやらソロらしい。
控室の中は、クーラーの低い唸りと、杏奈がプレイしている携帯ゲームのボダンの音、
そして桃子の小さな寝息だけが聞こえてくる。
特に気にしているわけではないが、杏奈は自ずとボタンの音が大きくならないようにプレイしている。
ただひたすらに静寂が支配する控室。
そのまま、しばらく時間が流れていく。
杏奈は、今日出来るクエストを一通りクリアしてしまい、すっかり手が空いてしまう。
ふと時計を見ると、もうすぐリハーサルの時間なのだが、周りには眠っている桃子以外誰も居ない。
「あれ…時間間違えちゃった…のかな…?」
杏奈はスマホに目を落とすと、プロデューサーからのメールが届いていた。
内容は、「リハーサルをするメンバーの別現場が大押しに押している為、リハーサルの日程を明日に変更する」というもの。
取り急ぎ、「了解」の旨を返信し、ゲームに戻るか帰るかを考えていた。
ふと、テーブルの方を見やると、桃子はまだ寝息を立てていた。
珍しいなぁと思いながら、テーブルの方に近づいてみる。
ブランケットを肩に掛け、机に突っ伏して眠っている。
普段の桃子を見ていることのほうが多い杏奈にとって、とてもレアな光景であることには間違いない。
桃子の向かい側に座ってみる。呼吸に合わせて、肩が上下している様子。
人の寝顔を見る機会というのは、そうそうあるものではないからこそ、思わずじっと見てしまう。
杏奈は、その珍しい風景を見ていると、なぜか微笑んでいた。
「桃子ちゃん…頑張ってるんだね…杏奈も…頑張らなきゃ…だね…」
思わず、桃子の頭を撫でる杏奈。
くすぐったいのか、頭を少し動かす桃子。
しかし、撫でるのを止めると、少しもの寂しそうにする。
杏奈は様子を見ながらなでたり止めたりしている。
「ふふふっ。桃子ちゃん…かわいい…」思わず声に出してしまう。
そうやって、しばらく桃子の頭をなでたり撫でなかったりしていると…
「んー…だーれ…?」と、とうとう目を覚ましてしまった模様。
「桃子ちゃん…おはよう…」
「んー…杏奈さん…?おはよう…」
まだ思考がはっきりしていない様子だが、身体を起こし、目をゆっくりと開いた。
「桃子ちゃん…大丈夫…?…調子悪かった…の…?」
杏奈が珍しい様子に少しだけ心配を乗せて言う。
「ううん…だいじょうぶ…あれ…これ…」
と、桃子はようやく、自分の肩に掛けられたブランケットの存在に気がつく。
「もしかして、杏奈さんが掛けてくれたの…?」
「あ…うん…暑かった…?」
「ううん…その…大丈夫。…ありがと。」
徐々に思考が働き始め、桃子は自分が居眠りをしてしまった事や、
杏奈に少しだけ心配をかけた様子だった事、更に、ブランケットを掛けてもらったことなど、
色々と状況を理解していく。
「うーん…なんかすっかり寝ちゃってたんだね…」
「うん。…気持ちよさそうに…寝てた…よ…?」
「杏奈さん…この事、お兄ちゃんや他のみんなには内緒にしておいて?」
杏奈は心の中で少し残念なりながら、「わかった…良いよ。」と答えた。
「そう言えば、杏奈さんは今日はレッスン?」
「リハーサル…でも、明日になった…」
「そっか。あれ、そう言えば桃子、この後レッスンのはず…」
携帯を見ると、「今日はダンスの先生が急な予定変更に巻き込まれたのでレッスンキャンセル」と言うメールが来ていた。
「もー…お兄ちゃんはこういう重要な内容をすぐメールで言っちゃうんだから…」
「でも…文章にしておくと…忘れる可能性が…減るよ。」
「そう…そんなものなの?」
「うん…杏奈も…大事なことは…メールで…言ってもらう…よ?」
「…それ、杏奈さんが電話が苦手だからとかじゃなくて?」
「ううん。違う…よ。」
「そっかー…あーあ~予定なくなっちゃったのかー。」
「こんなにリスケって、結構珍しい…よね…」
「立て続けだから、なにかあったのかなぁ…?」
「でも、美咲さんが…何も言ってこないなら…大丈夫…だと思う…」
「それもそうだね…そうだ。ねぇ杏奈さん。」
「何…?」
「この後スケジュールが入ってないなら…一緒に、お昼寝しない?」
「…魅力的な提案…!」
「じゃあ、そっちのソファーで寝ちゃおうか。」
「うん…ブランケット…もう一つ持ってくる…ね…」
「はーいっ。」
この控室のソファーは、普段はアイドル達の憩いの場として使われているが、
もう一つの顔として、事務所スタッフの緊急仮眠用ベッドがある。
杏奈は手慣れた様子で背もたれと、肘掛けを倒す。そうすると、あっという間に簡易的なベッドの出来上がり。
実際、アイドル達の急な体調不良が起こった場合などの休息用ベッドとしても使われているので、
使い方を知っているアイドルもいるのだが、杏奈はこのソファベッドを「なんでもないときに一番良く使っている」のである。
「杏奈さん…どうしてそんなに手際がいいの…」
と、思わず桃子も突っ込んでしまうが、今日ばかりは共犯者。
杏奈と桃子の二人なら十分寝転がれる大きさに展開されたベッドの上に、杏奈が先に寝転がる。
いつの間にか、頭の下にはクッションを抱えていた。
桃子も、杏奈に借りたブランケットを掛け、事務所に置いてあるお気に入りのクッションを胸に抱いて、うつ伏せに寝転がった。
「…なんだか…修学旅行…みたいだね…」
「桃子、修学旅行はまだ経験してないんだけど?」
「そっか…」
「でも…」
「でも…?」
「なんだか、楽しくて眠れるかどうか分からないや。」
「ふふふ。じゃあ…なにかお話…しよ?」
「良いよ。」
こうして、二人で色々な話をして、結局眠れず、ベッドに入って約1時間後にプロデューサーが帰ってきた所で、
このベッドでのおしゃべりはお開きとなった。
しかし、また二人だけになったら、今度こそ一緒にお昼寝をしようねと、小さく約束をしたのだった。
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